武満徹編曲「さくらさくら」に思ふ日本古謡の演奏解釈 〜新シーズンスタート〜

大変ご無沙汰しています。前回の更新が5月だったので......3ヶ月ぶりですか。はははははははははは。笑ってごまかしましょう。はははははははははは。

音楽活動は、ほんの少しずつ再開させていただいています。まだまだ以前と同じようにとはいきませんが。7月にはSWR声楽アンサンブルのシーズンを締め括るプロジェクトに参加させてもらいました。長年アンサンブルの音楽監督を務め、先シーズンで勇退したマルクス・クリード氏による最後のプロジェクトだったのです。当初予定されていた壮大なプロジェクトとはプログラムも会場も演奏形態もまるっきり異なるささやかなものとなってしまいましたが、個人的に、ようやく一歩前に進めた安堵と、クリード氏への感謝の気持ちを噛み締め、終演後屋外での打ち上げでは、これまでキャンセルされた全コンサートの打ち上げを回収できるくらいの量のビールを煽りました。そこそこフラ付きながら暗闇の公園の芝生の上を近道して帰ったら、一瞬のうちに全身がずぶ濡れになっていた、そんな夜中の2時。夏場の夜だけスプリンクラーが稼働しているそうです。

その後きっかり1ヶ月の夏休みを経て、ちょうどシーズン2020/21をスタートするプロジェクトを、昨日終えてうちに帰ってきました。フリーランスの合唱団ChorWerk Ruhrが、メンバー内で8人組を4つ作り、それぞれ八重唱の超小規模のコンサートを開くというものでした。で、ここのシェフのフロリアン・ヘルガート氏、こういう臨時のプロジェクトとはいえ、なかなかコアで挑戦的なプログラム持ってくるのね……..お陰様で夏休み中も練習三昧でヒマではありませんでしたわ。僕達の八重唱ではホルストとかラウタヴァーラに混じって、武満徹編曲の「さくらさくら」が選曲されたんです。


さくら さくら
弥生の空は
見渡す限り
霞みか雲か
匂いぞ出ずる
いざや いざや 
見に行かむ


SWRで日本づくしのプログラムを歌うという貴重な経験をさせていただいたのが2年前 (この「さくらさくら」はその時にも歌いました)。「ドイツの合唱団で日本語の曲を日本語で歌う機会などもう向こう20年はなかろ」と油断していたら、パンデミックと共にやって来るという不意打ち。

発音指導はもちろん快く引き受けました。ドイツ人の同僚達が日本の音楽を歌ってくれるなんて、有り難い機会じゃないですか。とはいえ、楽譜の歌詞にはローマ字が振ってありますし、日本語って、発音だけを教える分にはそれほど難しくはないんです。

  • 欧州言語と比べてウ母音は平たいよ
  • Rの子音は絶対に巻かないよ
  • ナ行では「に」のシラブルだけ舌を歯茎から口蓋全体に接触させるよ
  • ザ行は語中なら摩擦音、語頭なら舌を歯茎に付けるよ
  • ガ行は語頭でないなら鼻濁音だよ

......この程度のことを伝えさえすれば、あとは微調整だけでドイツ人だらけの合唱団からきっちり日本語が響いてくるんです。「さーくーら~」って。

むしろ僕の課題は、いかに日本らしい音楽表現に導くかでした。感染リスクを最低限に抑えるため、プロジェクトはたったの3日。1日目でザーーーッと発音をさらい、2日目に音楽作り、3日目にGPと本番、って感じ。えっちらおっちら音楽作りしてるヒマなぞなく、2日目には同僚から次々と質問を投げかけられました。

「『見に行かむ』の『に』にアクセントが書かれているけれど、「『に』は重要な音節ってこと?」......いやいやいやいや、絶対そんなことじゃない。

「『見渡す限り』のフレーズでは『かぎり』に向かってクレシェンドが書いているけど、『かぎり』は強調すべき言葉なの?」……んーなんか違う…。

他にも飛び交う「どの音が重要?」「どの言葉を強調すべき?」の質問の嵐。結局一つ一つに満足な答えを返すことができないままリハーサルを終え、その晩ホテルに帰って1人悶々と考え続けていたのです。この音楽はどう表現するのが適切なのか。日本語と日本の文化を全く知らないドイツ人にはどのように伝えることができるだろうか。このままで翌日のGPと本番を迎えるのはあまりにもどかしい。

ベッドに寝転がりながら、自分なりに分析、整理していたらいつの間にか眠りこけていたけれど、目覚めた時、頭の中で考えはまとまっていて、翌朝のGPで少し時間をいただいて、みんなに披露してみたんです。喋ったことを思い出しながら以下にまとめてみました。


ドイツ語と日本語の音節の性質に関する違い

日本語の単語の各音節は拗音と發音を除き、「子音1つ+母音1つ」もしくは「母音1つのみ」から成り立っています。Sa・ku・ra、あるいはYa・yo・iのように。

一方で、ドイツ語の音節には子音が複数含まれていたり、複数の母音が「二重母音」を形成したり、あるいは母音の後に更に子音が置かれることもありますよね。Bauch (バオホ)、Schreck (シュレック)、Pfahl (プファール) など長そうに見える単語も、それぞれ1音節と数えられます。

すなわち、ドイツ語は日本語に比べて音節のバリエーションが豊富。反対に、日本語は音節のバリエーションに乏しい。

sとaが含まれる音節は、日本語ではsa「さ」しかありません。ドイツ語なら、saß、sah、sanft、Saar、Satz、Salz….1音節の単語を思いつく限り挙げるだけでもこんなにあります。

これはどういうことかというと、音節の種類の少ない日本語は、単語を形成するのにより多くの音節数を消費することに繋がります。それに対し、ドイツ語は少ない音節で多くの単語を作ることができます。例えば、ドイツ語で「ドイツ」を意味するDeutschlandは長そうに見えてたった2音節なのに、Ni-ho-nはアルファベット5文字で3音節も消費している。「今日は雨が降っている」という日本語の文章は11音節なのに、これをドイツ語に訳して「Es regnet heute」と言うとたった5音節。


七五調、五七調

日本の伝統的な詩や歌は七五調や五七調で書かれることが多いです。すなわち、1行あたりの音節数が5、もしくは7。日本語の単語は押し並べて音節数が多いくせに、たった5音節や7音節に言いたいことをまとめようとするのです。

「さくらさくら」でも、「弥生の空は」「見渡す限り」と1行が7音節でまとめられています。「見渡す限り」の行は、7音節にたった2単語しか含まれていません。今回のプログラムのドイツ語の歌の歌詞にLeise, leise laßt uns singenというのがあります。こちらは8音節に5単語も詰め込まれています。音節数対単語数という観点からすると、日本語はいかにコストパフォーマンスの悪い言語であるかがお分かりいただけるでしょうか。

七五調と五七調の最も有名な例が、俳句です。五・七・五という極めて短い形式ですね。俳句は、言葉を用いた世界で最も短い芸術、とも称されます。

音節数を消費しやすい言語を、これほど短い形式に収めるにはどうするべきか。言葉を節約するしかありません。言いたい言葉を全て詰め込んでいたらとても五・七・五には収まりませんから。不必要な言葉は限りなく削ぎ落とすのが俳句です。むしろ、「最も重要なキーワードは敢えて俳句の中には入れず、それに関連する言葉で隠れた主役を浮き立たせる」と言う俳人もいます。例えば、雨に関する俳句を書く時に、雨という単語は直接使わないが、「濡れる」「傘」「憂鬱」などといった言葉で雨が降っていることを示唆するというような技法です。

俳句のこのような性質には、日本人独特の「表現の非直接性」に繋がるものがあるのではないでしょうか。ホンネはひた隠しにした上で、無難な言葉を選んで相手にそれとなく伝えるという表現方法。少なくともドイツ人と比べれば、日本人は自分の言いたいことを直接的に表現することを苦手とする種族だと言えます。

自分自身の経験

僕が日本を離れてドイツに来てドイツ歌曲を学び始めた時、レッスンの中で先生からよく「この行の中で最も重要な言葉はどれ?重要な言葉は強調して歌わなければならない」「もっと強調して!そうじゃないと伝わらない」と言われたものでした。正直なところを言うと、僕は当時、「それはちょっと直接的過ぎるし、大袈裟なような気が…..」と思っていたのです。今では、欧州言語の曲を歌う時、重要な単語を強調するという技法は妥当と捉えられるようになりましたし、10年のうちにすっかり慣れてしまいました。しかし、当時、そういった技法を「大袈裟だ」「直接的過ぎる」と感じていたのは、非直接的な表現を好む純日本人として極めて自然な感覚だったと思うのです。

日本の曲における「重要な言葉」

日本の伝統的な作品を歌う時でも、歌詞の中から「重要な言葉探し」をすることは決して無意味な作業ではないでしょう。少なくとも一般的に、名詞や動詞は助詞や助動詞より重要でしょうから。しかし、見つかった「重要な単語」は、本当に作者が強調したい言葉なのでしょうか。思い出してください。俳句では、本当に言いたい言葉は作品中に書かれていない場合さえあるということを。

例えば「さくらさくら」は、いかにも桜が満開な情景を想像して歌うべきかのように思われがちですが、歌詞をよく見てください。歌詞の最後には「(桜を)見に行こう」と言っている。ということは、現時点で筆者は満開の桜の下にいるわけではないかもしれないのです。「弥生の空は見渡す限り…」の下りは、あくまでも筆者の想像の中を描いているだけかもしれない......。

筆者はどこで、どういう状況に置かれて、どういう心境で「さくらさくら」と歌っているのか。男なのか女なのか。桜は1人で見に行くのか、それとも誰かと見に行くのか。全くもって不明です。当然です。日本語の場合、限られた音節数には、ほんの僅かな言葉しか詰め込めないのですから。

でも不明のままでいいじゃないですか。その方が、日本らしいじゃないですか。

確実に言えることは、例えばここで「空」とか「霞み」とか「匂い」とかいう名詞を強調すると、とてもクリアな「解釈」が提示できてしまう、ということです。すると、空とか霞みとか匂いがドーンと強調された具体的過ぎる単一の世界が聞き手に投げかけられ、それ以上のファンタジーが生まれる余地を一掃してしまいます。具体的な単一の答えを与えるよりも、曖昧なまま聞き手に投げかけて、自由に想像を膨らませていただく、あるいは「勝手に空気を読んでいただく」方がよほど日本的なような......気がしませんか?僕はそんな気がします。

これだけ並べ立てておきながら何ですが、「いざや 」だけは例外として意図的に強調しても良いかもしれませんね。口語の感嘆詞という意味で。

まとめ

武満さん編曲の「さくらさくら」の解釈について。僕は、ここまでに述べたような理由から、この曲を「重要な言葉に抑揚を与える」という西洋音楽では常識的な方法で表現するのはあまりに凡庸だと思います。武満さんは、西洋音楽に基づいた和声で装飾するという方法で、もともと旋律しかなかったこの曲に既に十分な意味づけを完了しています。あとは、言葉は音楽を構成する単なる響きのマテリアルとして活用する、くらいの認識で良いのではないでしょうか?そう捉えると、「に」とか「かぎり」とか、一見無味乾燥な言葉に置かれた強調に対する疑問は少なくとも解消されるでしょう。そうやって歌うだけではひょっとすると聴衆には単調に聞こえるかもしれません。でも、その素っ気なさこそ、「日本的」なのではないかと僕は思います。



..............................と、同僚の前でこんな偉そうな講釈を垂れてみたのです..............................

恥ず! 恥ず! あー恥ずかったー緊張したーーー! 普通だったらこんなに長い話を仕事の場で自らする自信なんてありません。でも今回は、僕が悶々としたままではみんなも悶々と本番を歌って終わってしまいそうで、そうなってしまうと絶対に後から後悔するから......勇気を出して話してみたのだ。

最初はみんなポカーンとした表情で、「何を話し始めるのだコイツは」感が痛々しかったのですけれど、話し進めるにつれて真剣に「フムフム」「ホーォ」と相槌を打ってくれて、最後には「納得!」の表情。

みんなもやもやがすっきりしたところで、モヤモヤとうっすら霧がかった曖昧な雰囲気で歌う「さくらさくら」は、それはそれは、素っ気なくてさりげなくて、ほんの少しミステリアスさが同居した、僕が目標としていた控えめで繊細かつ、非直接的に聴衆に語りかける日本の世界観でした。言語学者でも民俗学者でもないドシロウトの僕の勝手な分析に耳を傾けて、それに真摯に取り組んでくれたヘルガート氏と歌手の仲間達に感謝がちょちょぎれます。

日本にいた時は、日本語や日本の音楽をこんなに深く突き詰めて考えることはありませんでした。他文化の中で外国語を話しながら生活していると、母国の文化を比較的客観的に観察しやすいような気がします。僕は2010年9月1日、ドイツでの生活を始めました。今日はちょうど10年のアニバーサリーです。

またついつい長くなってしまいました。僕は相変わらず元気に生きているということはお伝えできたかと思います。明日は第九を歌いにスイスに発ちます。最後に、この夏ブリュッセルの友人の家に招いていただいたので、ひたすら自転車をこいで訪ねてみた思い出の写真達を貼ってお別れしたいと思います。




またねー。

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