アフターコロナ感
もちろん、収束したと言っている訳ではありません。ただ、なーんか「アフター」感は漂い始めた気が。学校は少人数制の授業を、飲食店はイートインの営業を再開しました。サッカーも始まります。
数週間ぶりに街に繰り出してみたんです。店が開いてもそんなにすぐに人は殺到せんやろ、と想像していたのですが、思っていた以上にかなり「普通」でした。ごくありふれた初夏のシュトゥットガルトの目抜き通り。老若男女溢れかえって賑わっています。営業していない店を探す方が難しいかもしれません。前と違うのはマスクをして歩いている人が多いことですが、違和感は覚えません。慣れるものですね。オープンカフェの席の間隔は、そういえば気持ち広めに取られているような気も。各々の店屋の入り口にはマスクを着用した店員が立っていて、消毒液を提供し、滅菌した買い物カゴを勧めてくれます。そして彼らは入場者数制限のために来店客をカウントします。入場制限はあるものの、アホほど行列しているような店はありません。
以前と異なる点は見受けられます。この以前と違う点を、みんながみんな神経質になってこなしていたら「普通感」が欠落するのでしょう。屋内に入ったらマスクを付ける。他人に接近し過ぎそうになったら一歩横に避ける。消毒液のボトルが置かれていたら取り敢えず手に一回吹きつけておく。そういったルールが負担に感じなくなるくらいすっかり馴染んでしまったお陰で、その他の「普通」をそこそこ取り戻せているのでしょう。ロックダウンの一つの成果として肯定的に捉えられるべき変化だと僕は思います。
3ヶ月前の自分をタイムマシンで呼び寄せて、「パンデミックってこんなんやで」って今の街の様子を見せてあげたらどう反応するでしょう。「え、めっちゃ普通やし」って拍子抜けするか、それとも「マスク着用義務?有り得ん!そんなん義務付けるなんて基本的人権の侵害!独裁政権!パンデミック最悪!」って騒ぎ立てるのか。少なくとも3ヶ月前の僕が「疫病流行」という言葉で想像していたのは、街行く人が突然発作を起こして路上に崩れ落ちて苦しみのたうち回り、近づいて見てみると皮膚はただれて髪の毛がごっそり抜け、どう助けるべきかおろおろしているうちにその人にもウイルスが感染して同じ症状でうめき苦しみ、やがて大通り一面が死体の山と化す.........という典型的な「地獄絵図」でした。SFの見過ぎでしょうか。テレビも映画も全然見ないんですが。
さて前回の記事で放送局の合唱団のリハーサルが再開することをお伝えしましたが、実を言うと1週間もせずに中断してしまい、敢えなく自宅待機に逆戻りしていたのです。中断の理由は、定められた衛生基準を厳格に守りつつ (歌手間の距離など) リハーサルのクオリティを保つことは現時点では困難と判断されたため、と我々には伝えられています。というわけで今週末が予定されていたライブストリームも残念ながら中止です。
ちなみに僕は、8月のシーズン終了までノンストップでここの放送局にお世話になる予定でした。今の時点では僕はこのまま何もなくシーズンを終えるのか、それともまた呼び出されるのかは未定で、宙ぶらりん状態です。放送局は向こう数週間は専属メンバーを中心により小さな編成での録音を予定しているようで、今のところフリーの僕に出番はありません。一緒に歌えなくて寂しい反面、合唱団自体が活動を続けていることに少し安心感を覚える自分がいます。
合唱の仕事が無くなって暇だからとかいう動機ではないのですが、最近ギタリストとのアンサンブルを再開しました。彼女とはシュトゥットガルト音大で修士課程を始めた頃から2人で地味に活動していました。が、卒業後しばらくすると彼女はシュトゥットガルトに住みながらオーストリアの大学に越境通学し始め、僕は仕事で長期の出張が増え、2人での活動はフェイドアウトしていたのです。過去の映像が少しだけ残っているので、少しご覧ください。
若......そして、恥ず……。歳をとるというのはこんなこっぱずかしい思い出を一度は否定し、やがて受け入れることの繰り返しなのでしょう。
昨年末に3、4年ぶりに再会し、各々の仕事も軌道に乗ってきているしアンサンブルを再開しようかと話し合い始めていた、その矢先のコロナ禍。しかもその後、彼女がコロナを疑わせる症状の体調不良に何週間も見舞われ (だがPCR検査対象と見なされず、陰陽は不明)、ロックダウン解除と彼女の回復を待って、ようやく、ついについに、いつ以来なのかさっぱり分からないリハーサルを再開しました。最後がいつだったのか2人とも覚えていませんもん。
日本の曲をやりたいとリクエストしてくるので、僕が何曲か見繕って、彼女がそれをギター伴奏に編曲しているのです。藤井清水 (ふじいきよみ) とか選んでみましたよ。ご存知ですか? 各地に伝承された民謡の採譜に努めたことで知られる作曲家で、その活動が色濃く反映された、民俗性の強い、こぶしをきかせたくなる作風の歌曲を多く残しています。
(民謡の採譜とは...古くから口承で伝わる民謡には書かれたものによる記録がないものが多くあります。民謡研究家は各地のお年寄りを訪ね、歌ってもらったものを直接楽譜に起こすことでそれらを後世に残します)
他にも、日本にはギターと同じ撥弦楽器である三味線、琴、琵琶などといった伝統楽器があるので、それらの作品をアレンジしてプログラムに組み込んだら面白いんちゃうか...などなどいろいろ目論んでみていますが、どこまでこだわれることでしょう。日本人が好む日本の音楽と、非日本人が好む日本の音楽には結構差があるので、センスが問われます。アレンジの作品だけでなく、オリジナルで声楽とギターのために邦人が書いた作品、たとえば細川俊夫、高橋悠治のものなども考えています。
ちなみに、彼女はカナダ出身なので、「じゃカナダの曲もやろうゼ」って提案してみたけれど、カナダには取り立てて面白そうな伝統音楽があまりないそうなのです。確かに、カナダの音楽って言われても全くどんなのか想像つかない。イヌイットの音楽とか? 絶対面白い! 知らんけど!! でも彼女はそんな極北の出身ではありません。カナダの音楽、きっと無いことは無いのでしょうけれど、カナダ人にさえ良いアイデアが浮かばないのなら僕に思いつけるわけがありません。
本番の日程が決まっているわけでもありませんし、そもそもいつまともな音楽活動が再開できるかもあやふやなので、取り敢えずは2人で、やりたい放題片っ端から試してみてプログラムを練っていきます。長いこと離れていたアンサンブルパートナーに再び返ってみると、自分の音楽との付き合い方が変わっているのに気づきます。音の取り方とか、音の聞き方とか、言葉の乗せ方とか、響きの残し方とか、諸々の点で、前はあまり気にしていなかったことに敏感になっている自分がいます。一方で、鈍感になっている点もあるかもしれませんが、鈍感なことってそもそも自分で気づけないですから、分かりません。少なくとも「前とは違う」ということです。いつ、この新しいプログラムを皆さんにお届けできるのかなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ。この小さい「ぁ」の数くらい首を長くして、僕らは本番の機会を待ち焦がれています。
コメント
コメントを投稿