フリーランスの合唱歌手の生活③ -芸術家のための社会保険機構-

前回投稿した、コロナ危機下での音楽家経済支援についての記事に、予想を遥かに上回るアクセス数をいただきました。今後大きな進展があり次第、このブログで報告します。

このブログはもともと、ドイツで働くフリーランスの音楽家の生活について紹介する目的で始めたのですが、これまであまり本質に迫る記事がかけていませんでした。今日は、フリーランスの芸術家のための社会保険システムについて少し詳しく紹介しようと思います。これを知っておいていただけると、今後、コロナ危機下での音楽家経済支援の動向を理解するのに役立つかもしれません。

ドイツで働くフリーランスの芸術家は、非常時の今でこそ混沌とした闇の中を手探りで進みながら生きていますが、平常時は経済的にかなり恵まれている方だと言えます。その基盤を成す要素の一つが、芸術家のための社会保険機構 Künstler-Sozialkasse、通称 KSK (カーエスカー)です。

ドイツでは、原則的にあらゆる労働者が社会保険料の支払い義務を負います。保険料の内訳で最も大きなものが国民保険、次いで健康保険、それから介護保険。社会保険料の金額は締めて収入の約20%ほどとなります。

企業の正社員として働いている人の場合、社会保険料の半額を雇用主、半額を労働者が負担します。ドイツの音楽家で正社員扱いとされるのは、オーケストラの専属団員、歌劇場や放送局合唱団の専属歌手、また音楽大学、音楽院、音楽学校の常勤の音楽教師などです。正社員の場合、社会保険料の自己負担分も引かれて給料が振り込まれるため、定期的に特段何かの手続きを踏む必要もありません。雇用主が、差っ引いた保険料を保険会社に直接納めてくれています。

フリーランスの労働者は、原則として社会保険料の全額を自己負担しなければなりません。しかしフリーランスでも芸術家だけが例外なんです。そこで登場するのがKSK。KSKに加入できるのはフリーランスのプロフェッショナルの芸術家です。加入申請書類を送り、審査を経てKSKに加入した芸術家には、社会保険料の自己負担額がなんと半額に免除されるのです。ちなみにKSKは国営の機関であり、残りの半額はなんと国税で負担されるのです。

KSKに加入できるのは音楽家だけではありません。画家、デザイナー、文筆家、ジャーナリスト、台本作家、俳優、声優、演出家、映画監督、写真家、ダンサー、マジシャン、コメディアンなどなどなどなど実に様々。加入申請用紙に、自分がどのジャンルの芸術家に属するのかをチェックするリストがあるのですが、A4の用紙にびっしり列挙されていて、眺めているとなかなか興味深いです。Sprecher(シュプレヒャー)という職業は日本語にはどう訳せば良いでしょう。英語でいうとspeaker、すなわち「話す人」。日本ではアナウンサー、司会者、ナレーター、声優、ラジオパーソナリティなど、細かい専門分野に分岐していますね。ドイツでは「話す」という行為が芸術として成り立っています。古くは物語や詩の朗読から始まったのでしょう。デジタル機器の発達した現在、ドイツではオーディオブックやポッドキャストを日常的に聞いている人が他国より圧倒的に多いそうです。プロフェッショナルのSprecherは、様々な「話す」ことを表現媒体とした活動を主な収入源としています。

KSK加入のための審査基準のようなものは、もちろんあります。音楽家の場合、音楽大学を卒業していて、音楽関係の仕事で最低限の生計を立てる収入があるならば、大抵の場合は審査をクリアできると思います。演奏活動だけでなく、プライベートの生徒へのレッスンなども含まれます。重要なのは書面で収入を証明することです。演奏による収入の場合、雇用主から契約書が発行される場合が多いのでこの点はクリア。あるいは、雇用主とのメールのやり取りの中で演奏会の日程やギャラの金額が謳われている場合、それをスクリーンショットもしくはプリントアウトしたものでも簡易の収入証明と見なされます。音楽教師としてプライベートの生徒を取っている人は、現金でレッスン料を受け取っている場合が多く、時に書面での収入証明が困難です。KSKへ申し込む数ヶ月前からレッスン料は銀行振込にしてもらう、あるいは簡易なもので良いので生徒と契約書を交わしておく、などの方法で解決している人が多いようです。

また、外国籍を有する芸術家の場合、労働許可を伴うドイツの滞在ビザの提出も必須です。しかし多くの人の場合、KSKへ加入申請するのは音楽大学を卒業したタイミング。外国人ならば、学生ビザから芸術家向け労働ビザに切り替えるには外国人局でKSKへの加入証明を提出する必要があります。一方KSKに入るためには労働ビザが必要……。まさに、卵が先か鶏が先か。この場合は外国人局にまず、KSK加入証明以外の全ての必要書類を審査してもらいます。そしてKSK宛てに「KSKへの加入が認められたら労働ビザを発行する」との手紙を書いてもらいます。手紙をKSKの申し込み書類に添付し、無事加入証明が届いたら、次はそれを外国人局に持っていって労働ビザを発行してもらいます。

芸術家のためのビザについては、もうちょっと詳しくお伝えしたいことがたくさんあるので、記事を改めてまた書かせていただこうと思います。

僕の周りのフリーランスの音楽家のほとんどはKSKに加入していますが、審査に引っかかり、加入を拒否されるケースが稀にあります。例えば、収入が極端に少ない場合。芸術活動による年間の純収益(経費等を差し引いた額)が3900€未満の場合はKSKに加入できません。当然ですが、この収入でドイツで自立した生活をすることは極めて困難なので、誰かに養われているならその扶養家族と見なされますし、芸術活動以外の収入が多いならば芸術が本業とは見なされません。KSKの会員でも非芸術系の副業を営んだりアルバイトをすることも可能ですが、本業の芸術活動以上に稼ぎ過ぎてしまうとアウトです。また、そもそも収入があまりに多過ぎる芸術家もKSKには入れません。充分な収入があるならば社会保険料を半額免除する必要はないのですから。

その収入額について。加入時にある程度の収入額を書面で証明することは必須ですが、その後は完全なる自己申告です。前述通り、社会保険料は収入の約20%程度ですので、自己申告額が高ければ保険料は上がり、低く申告すれば下がります。じゃ低く申告すればいいやん!という発想はあまりに軽率です。不定期にパトロールが入り、申告額が実際の収入から明らかに乖離していることが発覚すれば、最悪の場合KSKから永久追放という制裁が下ります。また国民年金については、若いうちに払った掛け金の総額で定年後の年金額が決定するので、今きちんと掛け金を払っておくことは将来の安心の保証にも繋がります。

個人的に一つ厄介に思うのは、収入額の自己申告が「事前申告制」であることです。毎年11月頃に翌年の年収を計算して申請し、その金額に応じた社会保険料を12で割った金額を、月ごとにKSKに支払っていくのです。現在のコロナ危機で、多くのフリーランスの芸術家が真っ先に取り組んだ課題がそれでした。本番が軒並みキャンセルされて、予定していた年間の収入予定が狂ってしまったのです。幸い、KSKでは収入額に大きな変更が生じた場合は、新たに算出した年収を通達することによって翌月からの支払い額を変更するシステムが整っています。コロナ危機でなくとも、大きな病気をして芸術活動を一定期間中断せざるを得ないとか、あるいは逆に、突然大きな出演依頼が飛び込んできて収入が一気に上がるなどということはしばしば起こり得る事態ですので、KSKはその点の柔軟性を持ち合わせています。ただそれにしても、仕事が増えた減ったでいちいち新たな年収額を計算し直し、KSKに連絡しなければならないのはなかなか面倒です。確定申告のように、1年が終了した後に正確な年収を算出して報告する方が、双方の仕事が軽減されると僕は思うのですが。

KSKはドイツ独自の社会保険機構で、芸術家をこのように優遇するシステムを採用する国は世界中を探しても他には見つかりません。EU圏内でも国境を超えたら異なる保険制度。他のEU諸国に住む芸術家は自分で社会保険料を全額負担しています。KSKはある種、ドイツのフリーランスの芸術家のシンボルなのです。

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